昭和のいるさんが死去…88歳、肺炎のため永眠
亡くなった日付と死因の詳細
昭和のいるさんが、2025年5月26日にお亡くなりになりました。
享年は88歳、死因は肺炎と報じられています。
所属していた漫才協会によると、亡くなられる前の一定期間は体調を崩されていたとのことですが、
大きく報道されることもなく、静かに最期を迎えられたようです。
「昭和のいる・こいる」という名コンビで一世を風靡した芸人として、
その死去に対して多くのファンや芸人仲間から追悼の声が寄せられています。
私も昭和のいるさんが出演していた「爆笑ヒットパレード」や演芸番組を父と一緒に観た世代です。
正直、“亡くなった”という言葉が信じられない気持ちもあります。
仕事柄、社内チャットでもニュースの話題がよく出るのですが、
「最近は昭和の空気を感じる芸人さんが減ったな」といった声があり、
その存在感の大きさをあらためて実感しています。
晩年の活動や出演情報は?
昭和のいるさんは、晩年も舞台を中心に精力的に活動されていました。
特に浅草演芸ホールや東洋館といった寄席での出演が多く、
「寄席の常連」として根強い人気があった方です。
テレビの出演は減っていたものの、舞台ではコンビの掛け合いや独特のテンポで
お客さんを沸かせ続けていたといいます。
筆者ものいるこいるさんの漫才が好きでしたので“ベテランの話芸”に触れるのは、ある意味で貴重な癒しでもありました。
その舞台が、もう観られないと思うと、胸がじんと熱くなります。
昭和のいるさんの学歴と経歴を紹介
出身は東京都、国士舘大学卒のインテリ漫才師
昭和のいるさんは、1936年(昭和11年)に東京都で生まれました。
本名は古谷暎一(ふるや えいいち)さんといい、国士舘大学を卒業された“インテリ芸人”でもありました。
当時としては、大学を卒業して芸人の道へ進むのは珍しく、
知性を感じさせる話しぶりと、スマートな風貌で注目されていました。
私自身も技術者として、理路整然と話せる人への信頼感を強く持っています。
昭和のいるさんの話芸は、笑いの中に“きちんと伝える力”があり、そこに惹かれた人も多かったのではないでしょうか。
芸人としての歩みと芸歴のスタート
大学卒業後、昭和のいるさんは演芸の世界へと進み、のちに昭和こいるさんとコンビを結成。
正式なデビューは1960年代後半で、テレビにも出演しながら寄席を中心に活躍していきました。
その後、長年にわたって舞台中心の活動を続け、浅草演芸場や各地の寄席で
「しゃべりの職人」として評価されていきました。
芸歴は50年以上にわたり、現役を貫いたその姿勢は、まさに“昭和の芸人魂”の体現者とも言えるでしょう。
「昭和のいる・こいる」名コンビの軌跡
昭和こいるさんとの出会いとコンビ結成
昭和こいるさんとは、舞台を通じて知り合い、1971年に「昭和のいる・こいる」として正式にコンビを結成。
以降、ボケのこいるさんと、突っ込み役ののいるさんという絶妙なコンビバランスで人気を集めました。
テレビ出演はもちろん、地方公演や寄席、ラジオなど幅広いメディアで活躍。
「爆笑ヒットパレード」や「演芸特選」などでネタを披露し、根強いファンを持つようになりました。
昭和漫才を支えた掛け合いの魅力とは?
「昭和のいる・こいる」の漫才は、いわゆる“しゃべくり漫才”の王道。
テンポの良い掛け合いに、時事ネタや言葉遊びを織り交ぜ、
聴いていて心地よいリズムと知的な笑いが特徴でした。
私自身、技術系の職場では“説明力”が非常に重視されるのですが、
のいるさんの話し方は、まるで技術資料を「笑い」に変えて届けるような、
情報設計としても非常に勉強になるスタイルでした。
漫才協会・落語協会でも存在感を発揮
真打ち昇進と浅草演芸場での活躍
のいる・こいるさんは、漫才協会の中でも高い地位にあり、
のいるさんは「真打ち」として多くの若手を育てる存在でもありました。
浅草演芸ホールや東洋館といった、いわゆる“東京演芸の本丸”ともいえる舞台に
定期的に立ち続け、そのたびに高座を沸かせていたといいます。
観客を前にして、一切原稿を見ずに話すそのスタイルは、まさに職人技。
筆者もエンジニアとしてプレゼンの場に立つこともありますが、
のいるさんのような“間”や“抑揚”の技術は、もっと真似してみたいと感じることがあります。
協会内での役割と後進への影響
漫才協会内では理事経験もあり、若手芸人への指導やネタ見せにも関わっていたそうです。
昭和の芸を令和に伝える役割を、自身のステージを通じて果たしていたのが昭和のいるさんでした。
その言葉は、ただ笑わせるのではなく「育てる笑い」として、
業界内でも評価され続けていたのです。
昭和のいるさんの人柄と、ファン・業界からの声
SNSや関係者からの追悼コメント
訃報を受け、SNS上では多くのファンや芸人仲間から追悼の声があがっています。
「子どもの頃、寄席で観たのが忘れられない」
「話芸の本物だった」
「あのテンポと語りは、唯一無二だった」
テレビ時代から寄席に通っていた人々にとって、昭和のいるさんの高座は特別な存在だったようです。
芸人仲間から慕われた“兄貴分”的存在
年齢や芸歴に関わらず、若手にも気さくに接していた昭和のいるさん。
特に協会内では“兄貴分”として、後輩からの相談をよく受けていたといいます。
それは、私が属する技術職の世界でも同じです。
後輩が伸びる環境には、必ず「耳を貸してくれる先輩」が存在します。
昭和のいるさんの姿から、私も“どうあるべきか”を改めて考えさせられました。