寺田光輝(医学部生)のwikiプロフィールとは?

寺田光輝さんは、元プロ野球選手でありながら、現在は東海大学の医学部に在籍する異色の経歴を持つ人物です。
三重県出身で、学生時代は文武両道の生活を送っていたそうで、その姿勢は現在の医学部生活にも活かされているようです。
高校卒業後、一度は大学を中退するも、筑波大学、そしてプロ野球、さらには医師の道へと進んできた人生はまさに波乱万丈。
筆者が個人的に思うのは、「やっぱりキャリアって一本道じゃないんだな」ということ。
私自身もエンジニアになったのは30代に入ってからで、それまでは出版業界にいたんです。
でも、人生ってふとしたきっかけで全然違う方向に動き出すから面白いですよね。
次は、三重県出身の寺田さんの学生時代について、もう少し深掘りしていきます。
三重県出身のエリート!学生時代の成績とエピソード
寺田光輝さんは三重県伊勢市出身。
地元の伊勢高校では、甲子園出場経験こそないものの、春の三重大会で準決勝まで進むなど、地域では知られた存在でした。
運動神経の良さだけでなく、学力も優秀だったようで、卒業後は三重大学の教育学部に進学。
ここで注目すべきは、「野球を諦めかけた時期があった」という点です。
なんと、入学2ヶ月で休学してしまったんですよね。
早めに自分に合わない環境と気づいて軌道修正できたのは、むしろ賢い判断だったと思います。
その後は筑波大学の体育専門学群に再チャレンジし、ここでまた野球に本腰を入れていくことになります。
周囲にはラグビーの福岡堅樹さんのような逸材もいたとのことで、かなり刺激的な環境だったようですね。
そしてこの頃から、「野球だけじゃない未来」も見据え始めていたのかもしれません。
プロ野球引退の理由とDeNAベイスターズ時代の実績
寺田光輝さんがプロ野球の世界に足を踏み入れたのは2017年。
25歳というやや遅めの年齢で、横浜DeNAベイスターズからドラフト6位指名を受けました。
高校から大学、独立リーグを経てプロへという流れは、まさに雑草魂そのもの。
石川ミリオンスターズでの活躍が評価されての指名だったのですが、ここからの道のりは決して平坦ではなかったようです。
「成果が出るまで環境に慣れるのは時間がかかる」ってよくある話で、正直なところ、寺田さんの奮闘ぶりには共感しかありません。
育成ドラフトでDeNAへ!入団から登板までのストーリー
寺田光輝さんが注目された理由の一つは、右のサイドスローという珍しいフォームです。
最速146km/hの直球に加え、左打者には外に逃げるツーシーム、右打者にはカットボールと、変則系のピッチャーとして期待されていました。
石川ミリオンスターズ時代はリリーフエースとして活躍。
2016年の前期には20試合登板で自責点0という驚異的な記録を叩き出し、翌年にDeNA入りを果たしました。
とはいえ、プロの壁は厚かったようです。
腰の痛みに悩まされ、椎間板ヘルニアの手術も経験。
まともに試合に出られないまま時間だけが過ぎ、いつしか「このまま終わるのかもしれない」という不安も募ったのではないでしょうか。
職場で「この案件、俺じゃなくてもよくない?」と感じたときの気持ちに、なんだか似ています。
ケガと戦ったプロ生活…プロ野球を引退した理由とは?
2年目の寺田さんは、アンダースローへフォームを変更して再起を図ります。
しかし、肩を痛めてからはストライクが入らなくなり、満足のいく投球ができない日々が続きました。
イースタンリーグでは18試合に登板したものの、防御率は9点台。
一軍での出場機会は一度もなく、2019年には戦力外通告を受けます。
ここで注目したいのが、家族の存在。
寺田さんは医師一家の長男。にもかかわらず、「医者になれ」と言われたことは一度もなかったそうです。
このあたり、ちょっと感動すら覚える話ですよね。
自分の意志で野球を選び、そして、きっぱりと引退を決意する。
40代の視点で言わせてもらうと、「諦める勇気」って、何かを始めるよりずっと難しいです。
引退後の心境やファンへのメッセージが泣ける!
引退の決め手となったのは、「悔しさすら感じなくなった自分に気づいたこと」。
これはなかなかにグッとくるフレーズです。
プロ生活の最後は、「やり切った」という思いよりも、「何とか終わらせないといけない」という空気だったのかもしれません。
でも、そこから切り替えて新しい道に進むのが寺田光輝さんのすごいところ。
しかも、目指したのが医師。
それも、自身の経験からスポーツ整形外科という道に興味を持ち始めたといいます。
会社でメンタル削られて転職活動を始めたあの頃の自分を、ちょっと思い出しました。
医学部再挑戦!E判定から東海大学医学部合格まで
野球引退後の寺田光輝さんが選んだ新たな舞台は、なんと「医学部」。
正直、「スポーツ選手あるあるの解説者とかじゃないんだ…!」と驚いた方も多いはずです。
ただ、実家が医師一家で、元々医学への興味も強かったそうなので、彼にとってはごく自然な流れだったのかもしれません。
ベイスターズ退団後、模試E判定からの奇跡の逆転劇
退団後、寺田光輝さんがまず始めたのは「河合塾マナビス」での勤務。
予備校スタッフとして働きながら、自身も医学部合格を目指して猛勉強を始めます。
ところが最初の模試判定は「E」。
合格可能性20%未満、というより実質ほぼゼロ…。
でもここで諦めなかったのが寺田さんの真骨頂です。
1年半かけて徹底的に基礎から見直し、参考書はボロボロになるまで使い込んだとか。
40代システムエンジニアの筆者の視点からすると、まさに「技術書を3周回してやっと実装通った」あの感覚と重なります。
どんなに基礎力があっても、受験って“戦い方”を知らなきゃ勝てない。
そして2021年、ついに東海大学医学部の編入試験に合格しました。
医学部合格のための勉強法とモチベーション維持術
勉強法について、寺田光輝さんは「自分の性格とリズムに合った方法を探すのがカギ」と語っています。
具体的には、
- 過去問を徹底的に分析
- 音読とアウトプット中心の勉強スタイル
- 朝に暗記、夜に演習という生活サイクルの徹底
- SNS断ちして集中環境を確保
など、受験生として王道ながらも“持続可能な戦い方”を実践していたようです。
自分も資格取得で「寝る前10分だけで毎日継続」とかやってたので、地道さの大切さにはめちゃくちゃ共感しました。
しかも、彼が目指していたのは“偏差値”ではなく“人の役に立てる医師”というビジョン。
そういう目的意識があるからこそ、ブレずに走れたんでしょうね。
なぜ整形外科を目指す?プロ経験を活かす進路選択とは
寺田さんが志望する診療科は、整形外科や内科。
とくに整形外科には「自分がケガで苦しんだからこそ、同じような選手や患者さんを救いたい」という強い想いがあるそうです。
これはもう、経験者にしか語れないリアル。
ケガとの闘いは、寺田光輝さんにとってプロ生活の象徴でもありました。
その経験を、“治す側”として活かすという選択肢にたどり着いたのは、まさに人生のリビルドですね。
ちなみに、整形外科医は体力勝負なので、元アスリートの寺田さんにとっては理にかなってるとも言えます。
僕も昔、徹夜案件で腰を痛めたとき、「エンジニアも整形外科医にお世話になってるなぁ」と思った記憶が蘇りました。
石川ミリオンスターズ時代に掴んだプロへの切符
寺田光輝さんのプロ入り前の最終ステージとなったのが、独立リーグ・BCリーグの「石川ミリオンスターズ」。
このチームでの活躍が、横浜DeNAベイスターズからの指名へとつながることになります。
独立リーグというと、正直なところ「NPBに届かなかった選手の場所」と思ってしまいがちですが、寺田さんの場合は違いました。
ここで自分を鍛え、魅せ、道を切り拓いたのです。
社会人野球からNPBへ!異色の経路と努力の裏側
もともと寺田さんは、筑波大学卒業後に「百五銀行」へ内定していました。
就職の道を選ぶ直前、「まだ野球を続けたい」と迷っていたときに、恩師からかけられた一言が背中を押したそうです。
「ここで終わるのはもったいないじゃないか」
まるでマンガのセリフみたいですが、これが現実のストーリー。
その後、内定を辞退し、石川ミリオンスターズに入団。
クローザーとして抜擢され、1年目でなんと20試合登板・自責点ゼロというとんでもない成績を叩き出します。
会社員からシステムエンジニアへ転職した当時の自分も、「未経験でもやってやるぞ」という気持ちでいっぱいでした。
職種は違えど、挑戦する気持ちって共通なんだなあとしみじみ感じます。
石川ミリオンスターズでの成績とプロ注目のきっかけ
2年目の成績はやや落ち着いたものの、通算で40試合登板・防御率1点台という安定ぶり。
正直、ここまで数字で結果を出す選手がNPBに指名されない方がおかしいくらいです。
それでも、2017年のドラフトでは「まさか自分が指名されるとは」と本人は語っていたようです。
しかも当時、同じチームにいた寺岡寛治さんの方が成績が良く、「間違えて指名されたかと思った」と本気で思ったとか。
…この話、めちゃくちゃ好きです(笑)
結果的には、「右の変則サイドスローを探していた」というDeNAのニーズとがっちりハマった形でプロ入りが実現。
見た目や実績だけじゃなく、「このタイプが欲しい」というニッチな需要に応えたというのも、エンジニア視点ではめっちゃ共感ポイントです。
自分の強みを明確にし、それが必要とされる場所を見つける。
それこそが“マーケット感覚”なんですよね。
医師を目指す元プロ野球選手という生き方
プロ野球選手から医師へ——。
この変化だけで一本ドラマが作れそうなほどの転身を果たした寺田光輝さん。
これまでの人生を振り返ると、“夢を追いながら何度も方向転換し、でも芯はブレなかった人”という印象が強く残ります。
しかも、それをやり切る実行力と地道な努力で形にしてしまうのが、寺田さんのすごいところです。
医師になった後のビジョンと理想の医療像とは?
現在、寺田光輝さんは東海大学医学部の5年生。
国家試験合格を経て、正式に医師になるのはもうすぐです。
彼が目指すのは、スポーツ整形外科や内科の分野。
自身がケガに苦しみ、リハビリに悩まされた経験があるからこそ、痛みを抱える人たちの立場に寄り添える医師になりたいと語っています。
これはシステムエンジニア視点でも感じるんですが、「現場を知ってる人のサポートは本当にありがたい」。
たとえば、元プログラマーのマネージャーは、エラーの出し方ひとつとっても理解が早いんですよね。
寺田さんも「野球現場を知っている医師」として、選手たちの信頼を集める未来が簡単に想像できます。
野球と医療をつなぐ活動にも注目!今後の展望は?
現時点でも、寺田光輝さんは横浜DeNAベイスターズのベースボールスクールでコーチを務めています。
医学部に通いながらも、野球と関わり続けている姿勢はとても印象的です。
これ、技術を教える立場としてもかなり説得力ありますよね。
もし将来的に「野球×医療」の分野でイベントやサポート活動をされるようになったら、個人的に全力で応援したいです。
もしかしたら、「元プロ選手のスポーツドクター」として、甲子園やNPB球場のベンチ裏にいる寺田さんの姿が見られる日も近いかもしれません。
医療とスポーツの両面から支える——まさに“文武両道の体現者”ですね。
