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伊藤義弘さん(元ロッテ投手)が死去!死因や経歴や家族は?引退後の活動が涙を誘う

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目次

伊藤義弘さん(元ロッテ投手)が死去!死因はバイク事故だった

バイク事故によって突然この世を去った伊藤義弘さん
ニュースを知った瞬間、多くのファンが言葉を失ったのではないでしょうか。

ここでは、事故の概要と世間の反応をまとめつつ、40代エンジニアとしての筆者の視点からも感じたことを交えてお話しします。


事故が起きた場所と状況の詳細

伊藤義弘さんが亡くなったのは、2025年10月6日の午後でした。

場所は福岡市城南区の交差点。バイクを運転していた伊藤義弘さんは、タクシーと出会い頭に衝突し、その後病院に搬送されたものの、同日16時16分に死亡が確認されたそうです。

43歳という年齢は、正直「これから」だと思っていた人も多かったはずです。少なくとも、同年代の僕の周りでは「まだ若い」「信じられない」という声が広がっていました。

エンジニアという職業柄、論理的に物事を捉える癖がありますが、今回のような出来事には理屈なんて通用しません。何より、40代って「人生の第2章」をスタートさせる時期でもあります。伊藤義弘さんもまさにその真っ最中でした。

最近は「Pitch+」というスローイング強化アカデミーも立ち上げたばかり。まさにこれからという時期だったのに、言葉になりません。

こういう時って、なぜか自分の中にある「当たり前」が音を立てて崩れていくような感覚があります。

ニュースを見た瞬間、胸がギュッと締めつけられましたね。

あまりに突然の訃報に広がる衝撃と悲しみの声

SNSやネットニュースのコメント欄には、伊藤義弘さんを惜しむ声があふれていました。

「えっ、嘘でしょ…」「43歳は若すぎる」「悲しすぎて言葉にならない」といった言葉の数々。そのどれもが、突然の別れを受け止めきれない人々の心の叫びでした。

特に印象的だったのは「2010年、日本一になれたのは伊藤義弘さんのおかげ」という投稿。あの年の活躍が、いまもファンの心に深く刻まれているのがよくわかります。

正直、僕もその頃の試合はテレビの前で熱くなって見ていた一人です。クローザーとして登板する伊藤義弘さんの姿には、どこか“職人魂”のようなものを感じていました。

エンジニアの世界でも、「ここ一番で頼れる人」ってものすごく貴重なんです。伊藤義弘さんは、まさにそんな存在だったんじゃないかなと思います。

次のセクションでは、そんな伊藤義弘さんの野球人生を、高校時代からじっくり振り返っていきましょう。


経歴や家族は?高校時代からロッテまでの野球人生

プロ野球選手としての道のりだけでなく、家族との絆や支え合いの姿も含めて、伊藤義弘さんの「人となり」が垣間見える内容をお届けします。

幼少期から野球を始めたきっかけ

伊藤義弘さんが野球を始めたのは、意外にも「消極的なきっかけ」だったようです。

もともとはバスケットボールが好きだったものの、小学校にバスケ部がなかったため、ソフトボール部に所属。中学ではバスケ部に入りたかったそうですが、ご両親に「野球をやらなければ勘当する」と言われてしまったんだとか。

いや~、ちょっと昭和な親御さんですよね(笑)

けれど、最終的には中学の大会でミスをしてしまったことを機に、自ら「高校でも野球を続けたい」と志すようになります。この辺り、なんというか“ぐるっと一周して戻ってきた感”があって、人生の面白さを感じますね。

次では、東福岡高校からプロ入りまでの道のりを見ていきましょう。


東福岡高校・國學院大・JR東海での活躍

東福岡高校では、2年夏に甲子園出場を経験。140km/h台の速球とキレのあるカーブを武器に、注目される存在になりました。

國學院大では2部リーグながらも存在感を放ち、JR東海では都市対抗で活躍。最終的には2007年、千葉ロッテからドラフト4巡目指名を受けてプロ入りします。

この流れ、まさに「叩き上げ」ってやつです。

僕の業界にも、地方の小さな会社から大手IT企業に引き抜かれて活躍してる人、結構います。共通して言えるのは、ハングリーさと継続力がすごいこと。

伊藤義弘さんにも、そういう泥臭さと努力の跡を感じますね。

では次に、ロッテ時代の成績と印象的なシーンを振り返っていきます。


千葉ロッテ時代の成績と印象的なエピソード

プロ入り1年目から4年連続で50試合以上登板。中継ぎ投手としてチームを支え続けました。

特に有名なのが、2010年の日本シリーズ。第7戦では延長戦で登板し、見事に胴上げ投手となりました。

これ、ファンならずとも胸が熱くなる展開ですよね。

ロッテファンの知人は「伊藤義弘さんがいなければあの優勝はなかった」と今でも断言しています。数字以上に、記憶に残る投手だったと言えそうです。

ただ、2011年には不運なアクシデントが。打者の折れたバットが左脚に突き刺さるという想像を絶するケガを負い、その後は故障に悩まされるようになります。

実はこの話、僕も番組で見て衝撃を受けました。技術者の世界でも、1つのバグや事故でキャリアが変わることがあるので、妙にリアルに感じてしまうんです。

次は、そんな伊藤義弘さんを支えた「家族」について深掘りします。


伊藤義弘さんの妻・子どもたちの情報と支え合いの関係

伊藤義弘さんは2009年に看護師の女性と結婚2男1女の父親でもありました。

引退後、日体大の大学院に進学して教員免許を取るという挑戦を支えたのが、奥さんの存在。アスリートフードマイスターの資格も持っており、ケガや故障の多かった時期に食事面で支えてくれていたそうです。

いやもう、尊敬しかないです。

僕も40代になって、妻のありがたさが骨身にしみてきてますが(笑)、本当に支えてくれる存在がいるって強いですよね。

こういう話を聞くと、「家族ってチームなんだな」と改めて感じます。

続いては、引退後の伊藤義弘さんがどんな活動をしていたのかを紹介していきます。


引退後の活動が涙を誘う…教師としての姿と新たな挑戦

ユニフォームを脱いだあとも、伊藤義弘さんの人生はアツかった。
教壇に立ち、グラウンドに戻り、未来の野球人を育てる。その姿は、また別の意味でカッコよかったんです。

日本体育大学大学院での学びと教員免許取得

2017年、日本体育大学の大学院に進学。

コーチングやスポーツ心理学を学びながら、教員免許と修士号を取得します。

エンジニア界隈でもよく話題になる「セカンドキャリア」ですが、伊藤義弘さんの行動はまさにそのロールモデルでした。

個人的に特に刺さったのが、「もう未練はない。次は教える側で力を使いたい」という言葉。自分の経験を、次の世代へ伝えるって、誰でもできることじゃありません。

この志、グッときますよね。

次では、実際に指導者として活躍した様子を見ていきます。


東福岡高校野球部監督としての奮闘

2020年から、母校・東福岡高校で保健体育の教員兼、野球部の監督に就任。

監督としてチームを13年ぶりの秋季九州大会出場へ導くなど、その指導力は高く評価されていました。

もちろん、順風満帆だったわけではなく、部内での言動を理由に一時的な謹慎処分を受けるなど、難しい局面もあったようです。

でもそれもまた“人間らしさ”ですよね。

エンジニアの世界でも、完璧なプロジェクトなんて存在しないですし、トラブルがあってもその後の立て直しが一番大事だったりします。

伊藤義弘さんは、その後も信頼を取り戻し、指導を続けていたといいます。

そして次に始めたのが、新しい挑戦でした。


最後に始めた「Pitch+」とは?

2025年9月、伊藤義弘さんは「Pitch+(ピッチプラス)」というスローイング強化アカデミーを立ち上げました。

これは子どもたちの投球フォームや肩の使い方を改善するためのアカデミーで、まさに「自分の経験を未来へ渡す」ような場所だったんです。

この立ち上げからわずか1か月での訃報。あまりにも早すぎます。

でもきっと、伊藤義弘さんの思いは、その教え子たちや支えた家族の中で生き続けていくのだと思います。

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